| わがクラブ創立の時の様子が知りたくて事務局に問い合わせたところ一冊の古い大学ノートが保存されていました。誰の記録か不明ですが断片的ながら当時の様子を知ることが出来ます。何かの参考になればと思い簡略にまとめてみました。

1.背 景
1952年(昭和27年)3月にマニラLCがスポンサーとなってわが国最初のライオンズクラブである東京LCが誕生した。その後、東京LCのスポンサーで神戸LC、その神戸LCが大阪LCを、さらに大阪LCのスポンサーで1954年(昭和29年)8月に名古屋LCが誕生した。
この様に1950年代は大都市に将来中心となるLCが誕生するなど、まさにわが国ライオンズの黎明の時代であった。1957年(昭和32年)7月に当クラブの親クラブである名古屋南LC(現在の名古屋サウスLC)が名古屋LCの努力で創立され、その2年後の1959年(昭和34年)には名古屋LCが名古屋西LCを、名古屋南LCが名古屋東LCをスポンサーしている。(注1)そして、いよいよ1960年代となって全国各地に次々とLCが誕生する日本ライオンズの勃興期となるのである。
(注1) 名古屋南LCはこのときまでに豊橋LC、岡崎LCをスポンサーしている。

2.萌 芽
名古屋南部に空前の被害をもたらした伊勢湾台風の傷も癒え、高速道路や新幹線の工事も着々と進み、東京オリンピックまであと3年余りという高度経済成長初期の1961年(昭和36年)9月にわがクラブは創立された。
1961年(昭和36年)3月8日名古屋南LCの役員会=現在の理事会と思われる=でゾーンチェアマンL中村 宏(注2)から名古屋の4クラブ(名古屋、名古屋南、名古屋西、名古屋東)の現状から港・熱田方面に新クラブが必要との提案があり同クラブ内での検討が開始された。おそらくその前から内々には話が進んでいただろうが、とにかくこの時に名古屋みなとLCの種は正式に蒔かれたのである。
同年3月14日には4クラブの幹事会(当時は市内4Cの幹事が連絡会を毎月1回開いていた)で再びL中村から同様の発言があり、名古屋LCが名古屋の北地区、名古屋南LCが南地区を担当し、それぞれ新LCの結成を目指すことが決議された。
そして同年4月7日のガバナー顧問委員会(諮問委員会か)=当時、名古屋地区は302−E 地区でガバナーは新潟LCのL林 隆行=で正式に名古屋みなとLC、名古屋名城LCの結成が決定された。ただこの年の5月に名古屋の4クラブがホストとなって第7回302−E 地区の年次大会が名古屋で開かれたため新クラブ創立の動きは表だっては一時休止となったようである。
(注2) 国際協会の地域割りは当初、日本全域が302地区として一地域であったがクラブ数の増加に伴い1959年(昭和34年)には302−E、302−Wの2つの地域となり、そのとき名古屋で初めてのガバナーL森 勇(名古屋LC)が誕生している。当クラブ創立時は全国4地区となっており302−E2地区1R2Zに位置していた。(ガバナーは金沢LCのL土井 登)302−E2地区は1R〜4Rからなり、1R1Zは静岡地方、1R2Zは名古屋市と信州地方で唯一の諏訪湖LCという構成であった。その後、地区の分割が繰り返されて1976年(昭和51年)に現在の地区割りである8複合地区(MD330〜337)・24地区となった。(その後、地区が分割され現在は3 3準地区である)

3.新クラブ結成へ
1961年(昭和36年)6月に入って名古屋南LCから新クラブへ転籍する会員の中からL貴島康隆(初代会長を務め2年程前、在籍40年のチャーターモナークシェブロンが認証されたのを期に高齢により退会された)やL浅野兵二(初代第1副会長で第2代会長)が中心となって設立準備委員会が頻繁に開かれた。
6月21日の準備委員会で他クラブ(名古屋LCや名古屋西LC)の会員の内、港・熱田に事業所を持つ人の勧誘や100名を越える新入会員の勧誘リストを基に会員の確保に努力することが申し合わされた。他クラブからの転籍は思うように運ばなかったが、39名の新入会員(この中にやはり高齢により退会された西尾庄太郎氏や大西一郎氏がいた)を確保出来たことが8月2日の設立準備委員会で報告されている。

4.結成式へ
名古屋南LCからの転籍が11名、江南LCから1名そして新会員が39名の合計51名で名古屋南LCの役員、市内LCの会長、幹事の臨席を仰ぎ1961年(昭和36年)9月6日にホテルマルエイ(名古屋国際ホテルの前身)で結成式が挙行された。当初は9月8日に予定されていたところ来賓のL葛野作太郎国際代表(現在の国際理事に準ずる役職か)の都合が悪く日程の変更をしている。
10月末迄に更に10名の新入会員(この中に一昨年急逝されたL坂川正幸がいた)を迎えることになり、その後の入会者を含めチャーターメンバー65名で国際協会の認証を待つことになった。(注3)
結成式翌月の10月には事務局員の河本さんを採用し着々と組織作りが行われたが、以後例会や役員会(当時は理事会という名称ではなくこう呼んだようである)はホテルマルエイで開かれ、クラブ事務局は市内の4クラブが既に合同で構えていた同ホテル内に開設され10月26日に創立された名古屋名城LCと共に6クラブの合同事務局となった。
記録によると創立当時の年会費は12,000円、会食費12,000円で今と同じ様に年2回の分割徴収だった。入会金は10,000円で現在の貨幣価値でどの位かわからないが、事務局員の月給が12,000円(賞与は年24,000円)であったことから推察すると面白い。
(注3) 現在334−A地区には118クラブあり、当クラブは19番目の創立である。当クラブより以前の創立クラブは名古屋、名古屋サウス、名古屋西、名古屋東、豊橋、豊橋南、岡崎、新城、豊田、一宮、一宮南、江南、尾西、常滑、瀬戸、半田、一宮中、尾北の18クラブである。

5.クラブ例会の始まり
1961年(昭和36年)9月6日の結成式の終了後に第1回の例会(名古屋南LCとの合同例会)が開かれた。
それより前の8月には新入会員を始め多数の会員が例会の雰囲気に馴染むようにと名古屋南LCの例会を訪問したり着々とクラブの体裁を整える努力がされていた。
当時も今と同じように出席率の向上が大きな目標の一つで、9月21日(木)の第2回例会では3ヶ月毎の皆出席者には記念品が贈られることが発表されたり、メークアップ規則(現在は例会の前後13日間が有効だが当時は前後6日間)が詳しく説明された。
またゴルフ好きが多かったようで、すぐにゴルフ同好会が発足し10月18日には和合GCで親クラブの名古屋南LCと合同コンペが開かれるなど会員同士の懇親を図る努力もされた。
因みに第1回例会の出席率は95%、第1回、第2回例会の平均出席率は
88%と記録されている。 また運営(8委員会)、事業(7委員会)の委員会構成も決まり徐々にクラブの組織が整っていった。
9月21日の役員会ではわがクラブ初の予算(翌年の6月迄の10ヶ月予算)が決定しているが今日と同様に運営費、事業費、会食費の3大科目で編成され、事業費として40万円の収入予定の内、23万円が会食費振替、ファインが12万円さらに事業収入(但し書きにクリスマス例会、家族会の記載があるのでドネーションのことか)として5万円を計上している。
ファインが相当多額なことや記録の中でドネーションの言葉が一切見られないのは興味深い。

6.最初のアクティビティ
記念すべきわがクラブ最初のアクティビティは市内5クラブ(この時は未だ名古屋名城LCは結成されていない)の合同アクティビティとして実施されたようで、
1.在名国際留学生の援助(製図板や医学書の贈呈)
2.東京五輪開催に備えて町をきれいにしようと10月15日に中部県下の子供たち約3千名が名古屋市に参集したのを記念して美化運動バッチを贈呈
3.10月22日に行われたボーイスカウトを始め9団体の少年少女900名の国連デーパレードに協賛しビニール袋入りのノートと鉛筆を贈呈 の3事業を1961年(昭和36年)10月に行った。総額136,200円の資金は各クラブの会員数割合(10月1日現在での5クラブ会員数は394名の記録がある)での負担となり、従って当クラブの拠出は21,000円程であった。

7.チャーターナイトへ
65名のチャーターメンバーが決定したことは前述したが、10月31日の役員会で名古屋名城LCと合同でCNを開催することが決められ、11月20日には合同CN準備委員会が開かれた。注目されるのはその前々日に豊田LCのCNが開かれ両クラブのメンバーが勉強の意味もあって多数出席したのだが、この豊田LCのCNが思わぬ影響を及ぼした。
というのは式典は豊田市民会館で型通り厳粛に行われたが、夕刻の祝宴が大事件となったのである。千人を超える参加者を収容する施設となると地方都市では学校の講堂しかないこともあって、祝宴は挙母小学校の講堂で催されたが(多くのLCが学校施設を利用してCN行事を挙行していたが、逆に言えばそれだけライオンズクラブが社会から期待されていたのかもしれない)そこでアトラクションとして芸者踊りやその芸者が酌をするなど神聖な教育施設が宴会場に使われたとか、雨上がりの運動場が自動車で占領されグランドが痛められたなどと翌日の中部日本新聞(後の中日新聞)に大きく報道され、市民から強い非難を受けたのである。
後日、この会に参加していたあるメンバーが新聞に投稿し「会の内容は報道から受ける印象とはほど遠いものだったが世間から派手だと思われる様なやり方自体に問題があったのではないか。LCのメンバーが特権意識を持っているとの批判もあるが決してそうではない、私のような平凡なサラリーマンでも入会出来るし、商売上のサヤ当てを防ぐため一業種一人の制限(ママ)を設けているだけだ。今度の事件だけでクラブそのものを誤解しないで欲しい。」と切々と訴えるようなこともあった。
この経験からか両クラブの合同CNの計画は「世間並みに、質素に執り行う」ことが念頭にあったようである。
ここから以後の詳しい記録は見あたらないが、式典や登録など8部会が編成され、その内の4部会を当クラブが担当して準備に当たり、1962年(昭和37年)3月25日にホテルマルエイでチャーターナイトが挙行された。そして国際協会からの認証状(チャーター)が初代会長L貴島康隆に伝達されたのである。記録によれば登録料は3,000円で参加者にその大部分を記念品などで還元することが申し合わされている。 (完)
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